[Main]
@火曜日 フジムラキイロ
高校生活二日目。
その日の始まりは中学校生活を延長させた変わらないものだった。
「おっはよーぅ。いやいや今日も一日元気に行こうではありませんか」
ただ違うところと言えばクラスの騒音係がマサカズ以外にもいるというところだろうか。
「いやぁ、今日もいい天気だねぇ。おっと、おはようおはよう」
教室に入ってくるなり大きな声であたりかまわず挨拶という名の暴力を振りまいている。新入生の俺たちにとっては名前も顔も覚えていない相手からの挨拶ほど恐ろしいものはないのだ。
教室を三百六十度眺めながら歩いて、困惑するクラスメイト達とあいさつを交わしている。三百六十度眺めながら歩いているということは、くるくる回転しながら歩いているというわけで、そんなの当然まっすぐ歩けるわけがないということになり、それとこの教室の中身が空っぽでないこととを合わせて考えるに、クラッシュする可能性はとんでもなく高い。簡単に言えばまっすぐ俺の机に向かってきているということである。
くるくるとスカートの中身が見えるか見えないかの危うい状態のバカが椅子に座る俺に突っ込んできやがった。
「どわぁ!」
俺とバカがもみくちゃになりながら床に倒れこむ。地面との衝突を避けるために突き出した左手はバカの追撃にとってあっけなく折られてしまい、床、俺の顔、バカ、とで見事なサンドイッチを作り上げてしまった。
「何をするこのバカ!」
「いやぁ、おはようおはよう」
「おはようの前に謝れ! そして謝る前に俺の上からどけ!」
「おっと、これは失礼仕った」
慌てて体を起こすバカと鼻血が出ていないかどうかを確かめる俺。
「いやはや大変悲しい事故でしたなあ」
「謝れっての」
「オンミョウ君、今日のようにさわやかな朝はおはようという言葉以外の挨拶は交わせない決まりになっているのだよ。だから私は謝る代わりに、君にできる限りの爽やかなおはようをすることにしよう」
「お前の言っている意味が分からない」
「んんー」
その場で一回転して胸を抱きながら腰を曲げた。かと思えばすぐに体を起こし両手を広げ、
「おはよう!」
「全然爽やかじゃねえ! 謝れっての!」
ダメだ。バカがうつる。
俺は謝罪をあきらめ机と椅子をもとの位置に戻した。
「いやぁ、オンミョウ君は厳しいね。高校生活始まってすぐにこんな強敵に出会うとは思ってもみなかったさ」
「はぁ?」
「ああ、そうさ。私は高校というものを楽しいものだと思っていたさ。そう、昨日までの私は。しかしそれは違ったんだと今思い知らされた。今ここには私の期待するものはなくただ厳しいツッコミのオンミョウ君が事も無げに椅子に座っているのであった。そう! 高校生活は私の想像よりはるかに楽しい! 君のおかげだぁ! オンミョウ君!」
バンバンと肩をたたいてくるバカ。
「痛い。どうでもいいけどお前本気で俺の名前を間違えているだろう」
叩いてくる腕をつかみ聞いてみた。
「あれ。昨日自己紹介で言ってたよね。よくヒカゲって言われますけども実はオンミョウでありんす。よろぴこって」
「んなみょうちくりんな自己紹介してねえよ! 逆だ逆!」
「ええ?! ミョウオン君だったのかぁ!?」
どどーん、と、どこからともなくそそり立つ崖に波がぶち当たる音が聞こえてきたが無視しよう。
「ヒカゲ。葉野ヒカゲ。オンミョウでもミョウオンでもなくヒカゲ」
「おお、それは済まない事をしたね。おはよう」
「おはようは万能か」
「はっはっは。名前を間違えてしまったお詫びに私の名前を教えてあげよう」
「お詫びにならねえ」
「私はフジムラキイロ。藤の花の藤に、人が住む村で藤村。イエローの黄色。藤村黄色! いやぁ、昨日はインパクトのない自己紹介しちゃって後悔してたんだよね。案の定だーれも私のこと覚えてないみたいだしお弁当忘れちゃうしで大変だよこりゃ」
「弁当忘れたことは昨日の自己紹介関係ないと思うけど」
「ぐはぁ!」
いきなり吐血をしてしゃがみ込んだ。
「どうした」
「あ、あんたぁ、いいパンチもってるじゃねえか。言葉のクロスカウンターを決められたのはあの頃以来だぜ……」
意味が分からない。誰かに助けを求めようと教室を見渡すも誰とも目が合わなかった。明らかに逸らされている。これはとんでもない爆弾を抱えてしまったようだ。
「お前、友達は」
いるのならそいつに丸投げだ。
「いるよ」
と言って俺の手を取って素晴らしい笑顔を俺に見せてきた。
「いやいや」
こんな妙な人間御免こうむる。
「ヒカゲ君はメイトって意味を知らないのかい」
「いや、まあ意味は分かるけど」
クラスメイト。クラス全員を友達と言っているのだろう。しかし俺が聞いているのはそんなことじゃなくて昔なじみの友だ、
「メイトっていうのは航海士って意味だぜ」
「違うだろ! 友達、ともだち! 俺は航海士か?!」
「そ、私たち、友達。ね?」
またいい笑顔を見せてきやがった。
俺は何となく目をそらして、いや、だとかまあ、だとかうん、だとか何かそんな言葉を口から漏らしていた。それをこいつは肯定の返事と受け取ったみたいで俺の手を握ったまま立ち上がった。
「友達! 高校の友達第一号!」
肩が外れてしまう勢いでぶんぶんと握った手を上下させてくる。
「中学時代の友達はいないのか」
「地元に帰ればいるけどここにはいないかな」
「家遠いのか。電車通学?」
「いやいやー、世間一般では徒歩と呼ばれる手段で来ておりますよ」
「じゃあ地元はここってことか?」
「電車通学ではないけれど電車帰郷になるわけさ。ズバッとバシッと言えば、一人暮らしなわけだ。あっぱれ」
「お前、一人暮らしとか大きい声で言わない方がいいんじゃねえの」
「むむむ、ヒカゲ君はこのクラスにそんな不埒な輩がいると申すのかえ。ダメだぜ、そんなこと言ったら」
「……そうですね。このクラスは安全です。面倒くさいからそろそろ座れば」
「おおお、とても素直でいい子だね。お姉さん感心しちゃうな」
面倒くさい。
「それでは名残惜しいけんども、おいら自分の席に座るとすっぺ。それじゃあまたあとであとで」
あとで何かあるのかよ。ってゆーか二回言う意味は?
「おい、ちょっと」
「んん?」
「何か困ったことがあれば俺に言えよ。俺、この辺地元だから。一人暮らし何かと大変だろう。つらいときは誰かを頼れよ」
「はっはっは」
笑ったと思ったらかっこよく親指を立ててきた。
「そういうのいいね!」
そういって俺の二つ後ろの席に座った。
何だあいつ。
高校生活初の昼休み。中学時代には存在しなかった秘境・学食へと潜入する予定だ。
「ヒカゲ、あんたどうせごはんもってきてないんでしょう。学食行きましょ学食」
「俺もちょうどそう思ってた。ちょうど一人で行こうとしてた」
「何それ。私とじゃあ嫌だっていうのかしら」
「……。はぁ」
俺は一瞬コウジに目をやり教室から出ていくのを確認した後、ミユを睨み付けた。
「お前、高校に入ったら積極的に行くって約束しただろ。お前があいつと飯を食いに行くと思ったから俺は一人で学食に行こうと思ったんだよ。お前この三年間も去年と同じ感じで無為に過ごすのか? そんなのバカらしいぞ。折角同じ高校の同じクラスになったんだから、少しは何か進展を見せてくれよ」
「う、うるさいわね。こっちにだってタイミングとかあるの。タイミングと戦闘態勢が整ったら玉砕してやるわよ」
「玉砕するなよ」
恋心に気づいてもうすぐ一年。距離は縮まるどころか二三歩離れているのは誰の目から見ても明らかだった。
「できる限りのことはするからさ、成就させろよ」
「……分かってるわよ」
友達の幸せを願う俺。なんと素晴らしい光景だろうか。
はたから見ればそう見えるだろう。
しかしこの不器用鈍感戦争を支援する理由が裏にはあるのだ。
ミユと同じクラスだった生徒なら、ミユがコウジのことが好きだというのは常識レベルの情報だ。それほどまでにあからさまな感情を見せているにもかかわらずコウジは一切気づかない。それをみたクラスメイト達はいつしかミユを全力でサポートするようになっていた。それでも気づかないコウジ。無駄とも思える援護、援助。いつしかクラスメイト達のサポートというやさしい気持ちは賭けという何とも面白いものに変化していた。
簡単な話、一口千円で、二人をくっつけたやつが総取りできる単純な賭け。
舞台が変わっても終わることのない最高の娯楽だ。
当然ミユと幼馴染でコウジと友人という立場にある俺は圧倒的有利なわけで、大金(約三万円)を手にする確率が高い。はっきり言えば反則なまでに俺の立ち位置は最強なのだが、それでも俺の賭け参加が認められているのはこいつら二人がどうしようもなくくっつかないからだ。言ってみれば磁石の同じ極。決して引っ付かないと思っているから俺の参加が許してもらえた。
まあ、そういうわけで、この賭けはほとんど成立していないのである。賭け金だって払ってるわけじゃない。ただ参加する人間の名前を紙に書いて勝った場合はそいつらから金をもらうっていうだけ。
楽しんではいるが、諦めてもいるんだ。
くっつくはず、無いんだって。
はぁ、そろそろくっつきやがれ。俺も面倒見きれなくなるぞ。
「よし、じゃあ学食で作戦会議だな」
「いらないわよそんなの」
「ではでは、いただき火星!」
俺とミユの前には、昼でもうるさい藤村がいた。
「なんでお前がそこにいる。いや、その前にいただき火星ってなんだよ!」
「だめだねぇ、ヒカゲ君。火星は英語でマーズなのだ。つまりいただきマーズというわけなのだよ諸君」
「はぁ」
「よしわかった。いただきマーズ。許そうではないか。面白いね、いただきマーズ。俺も使うよ。よし、じゃあ改めて、なんでここにいる」
「ツッコミの仕事を休んだらダメでやんすよ。ヒカゲ君はそういう星のもとに生まれてきたのだからね」
「なんでここにいる!」
「なんでここにいるかだってぇ! ミユちゃん、ヒカゲ君はとんでもないことを聞いてくるよ。人に存在理由を聞いてくるなんてどれだけ人生悟っちゃってるんですかって感じでありますな。よし、改めて私の存在理由を考えてみよう。……かー! こんな数秒じゃあ答え出ねえってのよ。よし、宿題にしよう。明日までにはちゃんと答えて出してくるからまた聞いてね。おっと、明日聞くって言ってもお昼休みにだぜ。朝一できいちゃいけないぞ」
「はぁ」
藤村の勢いにただうなずくことしかできない俺たち。
「お前は何がしたいんだよ」
「私? 私はただ友達と同じ卓に座って食事をとろうとしているだけでありますよ隊長。それで、今現在友達はヒカゲ君しかいないからここにいるわけだけど違った?」
「俺に聞くな。よし、今から友達作ってそこでご飯を食べなさい。お前はやればできる子だから二分で友達を作れる。じゃあな、俺たちは今から大切な用事があるの」
「…………。……。……ああ! しまったぁ……! またやっちまったぁ……。こ、ここここんなラブラブ食卓万歳三唱の間に割り込んじまうなんて。いやー、こりゃ失敬失敬。私は一人でロンリーウルフ決め込んでくるから後は若いお二人でしっかりとやるんだよ」
素うどんが乗ったトレーを持ち申し訳なさそうに立ち上がった藤村をミユが引きとめた。
「あ、一緒に食べましょうよ。えーっと、藤村さん?」
余計なことするな。こいつと一緒じゃあ落ち着いた食卓なんて夢のまた夢のさらに夢だぞ。
「お、おおお。私は久しぶりに感動の涙を心の中で流しているよ。素晴らしい記憶力だねこれは。近年まれにみる地味自己紹介を繰り出した私の名前を覚えてくれているなんて……。あ、あんたぁ、まさかとは思うけど……、記憶力の権化?」
「藤村さんの自己紹介はとってもインパクトがあったから大抵の人が覚えてくれていると思うけど」
「なんと。さらにほめることも忘れない素晴らしいお嬢さんだった。そんなあなたにロンリーウルフは惹かれていくのでした。よろしくミユちゃん」
「こちらこそよろしく。藤、キイロ」
ぼうっと眺めている間に友情が芽生えていた。すごいな藤村。
「でもラブラブ食卓万国共通の間に割り込んじゃうのは気が引けるので私はあっちの隅っこの方で床のシミの数でも数えながら近くを歩く生徒にロンリーソウルぶち込んでくるから気にしなくていいさね」
勘違いの極みだ。
「違うっての。ミユがいいならまあいいや。さっさと座れ」
「ヒカゲ君がどっか行けって言ったのにおかしな話でありますね」
素うどんを置いて席に着く。
「いいかい、よく聞くんだよ。俺はこいつをラブラブ食卓に着かせたいから二人で作戦会議を開こうとしていたのだ」
「あんた何言ってるのよ! 知らない人にばらす気?!」
顔を真っ赤にして髪の毛を引っ張ってくる。
「いてて! いいじゃんか! いつかばれる。だからあまり変わらないって!」
「そんなわけないでしょう!」
そんなわけあるわ。
「とりあえず禿る。離せ」
「言わないって約束するなら離すわ」
「言わない、約束する」
「……あんた、言ったら殺すから」
離してくれた。
「俺禿てない?」
藤村に側頭部を見せる。
「大丈夫。人間髪の毛じゃないから」
なるほどとなぜか納得。
「そんなわけでこいつはコウジのことが好きなんだ」
「な!」
俺の横顔が焼けただれてしまうのではないかというくらい熱い視線で睨み付けてくるが知らん。
「コウジ、って言ったら、出席番号までは分からないけど一年四組の木下コウジ君かな? なるほどぉ、甘酸っぺぇ、甘酸っぺえよ。ぜひ私も協力する。協力させてください師匠!」
「……まずはご飯を食べましょうか。話はそれからってことで」
「おっと、そうだね。私の素うどん様も首を長くしてお待ちだ。せっかくの腰つきがなくなってしまうのももったいないし、急いで食さねばなりますまい」
猛烈な勢いでうどんを流し込んでいく藤村キイロ。
「あんたあとで殺すから」
隣で物騒なことをつぶやきながら野菜炒めを食べる女はどこから逃げ出してきたメスゴリラなんだろうか。早いところ麻酔銃で眠らせて大自然に帰してあげて。俺の命が危ないから。
「食べたー!」
「はや!」
「愛の力は食欲をもパワーアップさせるのだ。この程度のうどん野郎なんざぁ、私にかかればものの数秒で口火傷したー!」
こいつはすごい世界を持っているな。少し見習いたい。
「ちょっと水もってくるわ。それまで我慢しろ」
「あい、えひえあはあうおっへひへうえー」
「は?」
「できれば早く持ってきてくれーってさ」
「はいはい」
水を二杯もって同じ席に戻る。
「おら、氷たっぷりだ」
「かたじけねぇ!」
いい飲みっぷりを見せてくれる。
「ん」
もう一杯の水をミユに渡した。
「あれ、自分のじゃなかったのね。ありがとう」
「殺されたくないからな」
少しでも便利な奴だと思わせ利用価値のある俺を演じなければ俺の命はあと二十分ちょっとで尽きてしまう。
「さあさ、ミユちゃん。話しなせぇ話しなせぇ。この恋の庭師藤村黄色が話を聞いてちょちょいと手入れしてやらぁ」
恋の庭師、初めて聞いた。藤村はおかしなやつだ。昨日くらいから気づいていたが。
「……私まだ全然食べていないんだけどな」
「……うぬ。盲点であったな。儂が急いで食べたところでミユ嬢の野菜炒めが減るわけじゃあなかったのう。うむ、よくかんで食すが良いぞなもし」
「お前は変なしゃべり方するな。女の子らしくしゃべりなさい」
「女の子らしくとはこういうことかえ? おじいさん、晩飯はもう作ったでしょう。私だけに」
「……もう勝手にしてくれよ」
「ん? 何やらヒカゲ君はお疲れモード第二バージョンだね。そんな私はプリンアラモード春バージョンを頼みに行くのであった。チョイと行ってくるね」
シュビっと手を挙げ再び食券販売機のもとへと飛んで行った。
「なんだか、すごい子ね」
「すごすぎるわ」
「……って、あんなそんなことよりなんでばらしたのよ。ほんっとに趣味悪いわよ」
「バカ野郎。あいつのあの性格だから、もしかしたらコウジの目の前でお前の心に気づいて、そのまま気づいたことが口からあふれ出すかもしれないだろう。先にばらしておいた方がよかったんだよ」
「そんなわけないじゃない、と言いたいところだけどなんだかあり得そうな話ね。でも気づかれないかもしれないでしょう」
「はぁ、お前はなんで中三のクラス全員がお前の恋心を知っていたと思っているのだ」
「……知らないわよ」
納得してくれたのか野菜炒めに集中しだしてくれた。よし、俺もこの白米を味わって食べるとするか。うん、うまい。
「ううぇぇん!」
遠くの方から鳴き声が聞こえる。俺は子供が迷子になって泣き叫んでいても見て見ぬ振りができる才能を持つ人間なのだ。だからたとえこの泣き声が聞き覚えのあるものでも俺は華麗に無視して見せる。
「ヒカゲぐーん!」
泣き声は俺に近づきながら俺の名前を呼びやがったあの野郎!
「なんだよ。何があったのかこの初対面の俺に言ってみなさい。聞き流してやるから」
「プリンながっだー!」
「知るか!」
そう泣く藤村の手には素うどんの置かれたトレーが乗っている。
「だからってもう一杯頼むなよ」
「ちっちっち、空腹は時として人を襲うこともあるのだよ。空腹スイーパー黄色としては少しの空腹も許さないんだぜ」
先ほど食べたうどんの横に新しいうどんを置いた。
「あーはいはい。分かったからさっさと食おうぜ」
「よーし、どっちが先にうどんを平らげるか勝負だ!」
「俺うどんじゃねえ」
「な……! く、くそう。こんな頭脳プレイを見せられたとあっちゃあどんな小細工も通用しないんだろうな……。負けた」
知らん。もう何も知らん。
「いっただっきまー、した」
「はや!」
どんぶりの中には汁すら残っていなかった。この一瞬で何が起こったのだろうか。気にならないから調べはしない。
「さ、ミユちゃんの恋バナ徒花フィリピンバナナを聞こうじゃありませんか」
「徒花はやめて。縁起悪いわ」
「これは失礼好物鰈、そんな私に箝口令」
「それはいいことだわ。えーっと、じゃあ何が聞きたいの」
お疲れモードのミユ。そりゃこんな奴と話していたら疲れるわな。
「まずはいろいろ聞きたいことがあるけど、なんでヒカゲ君とご飯を食べているの?」
「そりゃ、手伝ってもらおうと思って」
「おかしいね、おかしいね。ヒカゲ君との仲を勘違いされたら手伝ってもらうどころの騒ぎじゃなくなるよ」
「……そりゃこいつとは付き合い長いから勘違いされようがないというか」
「なるほどなるほど。少し間違ってるぜミユちゃん」
「何が?」
「噂っていうのは、なかなか拭い去れないもんなんですぜ。この学食内に居る人のほとんどはミユちゃんとヒカゲ君の関係を知らない幼子ばかりだ。噂は絶対に立つよ。その噂がコウジ君の感情を動かさないという保証はどこにもない。せっかくなんだから高校という新しいステージに上がったというこの機会に色々と仕切り直すのもありなんだと思いますぜ」
ごもっともだ。まさかこいつ本気で恋愛相談に乗る気なのか。
「……そう、色々なかったことにしてさ」
何やら悲しい顔でどんぶりの中を覗いている。その顔には先ほどまでの元気な藤村の姿はなく、どこまでも暗いただの女子高生に成り下がっていた。
気にはなったが今日初めて話をした女子の心の中に飛び込む勇気がなかった。俺はその感情に気づかないふりをしてただ下を向く藤村の顔を眺めた。
「……なるほど……」
箸を咥え藤村の言葉の続きを聞きたがるミユ。こいつは何も気づいていないようだ。
「つまりは、何が言いたいのかと申しますと」
顔を挙げた藤村が、しばらくミユの顔を見て、少し笑った。
「みんなで一緒にご飯を食べようの巻!」
「……はぁ? なんでそうなる。俺とミユが飯食わなきゃいい話だろ。みんなで食う必要ないじゃんか」
「ちっちっち。甘い。甘いぞヒカゲ。この恋にはサポートが必要なのだ。君の助けがあれば恋という名の架け橋は超スピードで建設可能になるのであった」
意味が分からないけどサポートが必要なのはわかる。でもそれは俺でなくていいはずだ。俺はこの一年間で功績を残せたことがないのだから。
「そうね、なんだかやる気がわいてきたわ。ヒカゲ、明日私はコウジ君と一緒にご飯を食べるわ。何とか誘いなさいよ」
「はいはい」
でもま、頼る相手がいない間は俺が面倒見てやろうか。ミユは幼馴染だし、コウジは友達だし。
「もちろん私もそこに入れてね!」
明日からもうるさい食事が続きそうだなこりゃ。
初日の楽な授業を終え、後は校舎内から出ることによって今日の高校生活が終焉を迎える。しかしつまらない一日だった。ほとんど今までと変わらない一日だった。
朝起きて、学校に来て、授業して、飯食べて、授業して、そんで帰る。
違ったところと言えば藤村と友人関係(一方的)になったことくらいか。
「よーし、行くわよヒカゲ」
「どこに」
「そりゃ当然部活探しに決まっているでしょう」
忘れてた。
ここでいくらぐずっても俺の放課後プランが遂行できるとは思えないので諦めてミユに従うことにした。
時には諦めも肝心だ。
しかしこいつは昼休みに話したこと何一つ覚えていないのだろうか。俺と一緒にいることであらぬ噂が立ってしまい、それが今後の恋路の邪魔をしてしまうのではないかという仮説を立てたではないか。それを忘れて俺と部活探しに興じるなんてバカにもほどがある。
「じゃああんたは好きな子と一緒に部活探しできるの。そんな勇気あるの」
そりゃできない。できないしやろうとも思わない。恥ずかしくって死んでしまう。
いや、論点が変わっている。俺と一緒にいるなという話で、別にコウジと一緒に部活を探せと言っているわけではない。一人で探せばいいだろうとか、他にもうんたらかんたら意見してやったのだが「ふふ」というほほえみによって俺の口と背筋は凍り付いてしまった。
俺は確信したね。
誰が俺の伴侶となるかは分かったもんじゃないけど、俺は将来尻に敷かれるな。
「んじゃどこ行くよ。昨日だってめぼしい部活見つけられなかったんだぞ。昨日の今日で部活増えているわけじゃああるまいし、どんな奇抜な方法で部活を探すんだよ」
「どんな方法を奇抜というのかわからないけど、こういう大切なことは実際に足を運んでみないと分からないものなの。だから今日も見学見学」
見学、ねぇ。いったい何の目的があって興味のない部活の見学をしなければならないのか聞いてみたいよ。しかし聞く相手がミユしかいないので諦めることにしよう。
「なんかやりたいことがありゃなあ。簡単に決まるのに」
「近ごろの若者は無趣味な奴がほとんどなのよ。私たちもその一部なんだから誇りに思いなさい」
「これに関しては多い意見だからって誇りには思えないな」
そんなことを話し合っているうちにいつの間にか部室棟にたどり着いていた。
昨日のパンフレットを鞄から引っ張り出してうんうんうなるミユ。やりたい部活がないのならほかのことに時間を割いた方がまだ有意義だということが分からないのか。
「あ」
そのことに気づいてくれたのか小さく声を上げパンフレットから俺に視線を移す。
「どうした。やっと自分のしていた愚かな行為がおかしいと疑問を持ってくれたのか。よしよし、その調子で答えを出してみよう。そこから導かれる答えは三文字だな。げ、こ、う。よし、帰ろう。そんでファミレスで今後の作戦会議をしよう」
「あんた一人で何言ってるの」
そう言う瞳がすべてを物語っている。
俺は蔑まれたのだ。
「熱い展開思いついたわよ」
「熱い展開。誰がそんなのを求めているんだ」
「あんたじゃない」
「俺が何時何分何十何秒地球が何回まわった時にそんな展開を求めたのか教えてくださーい」
「答えはNOよ」
答えにもなってないし意味も分からないがこれ以上しゃべったらダメなんだっていうことはよく分かった。
「ここ見て」
ミユがパンフレットの一部を指さした。そこに書かれていた文字を読んだところで俺には真意がわからなかった。
「これが何」
「わかんない? 漫画とかで聞くでしょう。こういうどうしようもない状況の部を救うって話」
「まあ、ありがちだな」
「ね。ヒカゲはこういう展開を待ち望んでいたのよ」
ここで反論しては俺の儚い命が散ってしまう恐れがあるので無言のプレッシャーを与えて様子を見ることにした。
「さぁ! 行くわよ!」
プレッシャーとは無縁の生き物であることを忘れていた。いや、忘れていなかったが、信じていたんだ。俺の心をちゃんと読みとってくれると。
「ほら早く」
どう妄想しても俺の幸せな未来は見えてこないので一番被害の少ない運命を行くことにした。
「ちょっと待ってー」
パンフレットにはこう書かれていた。
『部(同好会)には最低四人以上の部員が在籍していること。それを割るときには部の存続は認めない(以下略)』
そして今現在部員数一名の同好会と言えば分かっているだけで一つ。
「こんにちは!」
ミユの気合の入った入室に対し、全身で驚きを表す幼女部長。
「な、何事?!」
「私たちを入部させてください!」
俺たちは日傘同好会へやって来た。
「……へ? 入部?」
数秒の無言ののち、訳も分からず机のまわりを走り始めた幼女。
「な、ななななんで?! いったい何が目的? 私のお金? それとも成績?! もしかして私をいじめるために?!」
「落ち着け」
足をかけて落ち着かせてあげた。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
派手に転ぶ幼女。これで落ち着いて話せる。
「何するの!」
落ち着いていなかった。
「落ち着けって」
「落ち着いていられるか!」
うなり声をあげ、俺を威嚇する未知の生物『ヨウジョ』。しかしながらよく見れば可愛いのでかみつかれることもそう悪くないだろう。
「うがぁ!」
「っ! がっ……!」
幼女はその低い身長を生かし素晴らしいフォームで威力MAXのローブローを放ってきた。
「ちょ、腸が……」
情けないことに幼女パンチは俺の立つ気力総てをそぎ落としていった。ヘロヘロと床に倒れこむ俺に追撃を忘れない幼女。
「このやろー!」
顎を蹴り上げパンチらサービス。白か。
「がぁ! ……もうごめんなさい」
いらないサービスに精神的に参ってしまった。
「ふん」
満足して先ほどまで座っていた椅子に戻った。
「……へ? 入部?」
「そこからやり直すのかよ! いいよ先に進んで!」
ミユが咳払いをして仕切り直す。
「そう、入部です。私たちとともに一部リーグへと昇格しましょう」
「一部リーグ……?」
「そうです。部費が出る『部』にこの日傘同好会を昇格させましょう」
あっけにとられ開いた口が閉まらない幼女。うむ。それは正しい反応であるぞ。
「で、でもどうすればいいのか分からない、から……」
「何もわからないんじゃあ俺たちも何もできないな。昇格は無理だ。ただくっちゃべってるだけじゃあとても部にすることなんて不可能だぜ」
「う、うるさいなぁ。じゃあ、お前はこの機会にギターでも始めればいいじゃん。そしてギターに名前付ければいいじゃん」
「それはやめろ」
たじろいでいる幼女にミユが御高説たれる。
「部に昇格するためにはまず部員が必要です。このままでは廃部ですよ。ご存知ですか。部員数が足りない状態で部が活動を認められているのは二か月間です。二月後には廃部になってしまうんですよこのままでは」
「う、う……」
よく分からないがミユの言葉に押されている様子の幼女。しょうがない。助け舟を出してあげよう。
「別に部を存続させたくなけりゃミユの入部を拒否すればいいんじゃないっすかね」
「う、う、うううううううう」
うーうー唸りだした幼女。可愛いな。おっと、この可愛いは恋愛対象としての可愛いじゃないぜ。性の対象としての可愛いだ――じゃなくて、小動物とかに対する可愛いだ。
「ううううるさああああああああい! とにかく! 入部なんてダメー! 帰れー! 男は死ねー!」
「死ねって」
「帰れこのドラッグ野郎!」
「俺ラリってました?!」
「うるさいしゃべるな! 空気が汚れる時空が乱れる! 何もできないお前なんて死んじゃえばいいんだ!」
本気で叫ぶ幼女。ああ、そうかいそうかい。分かったよ。こちとら入部する気なんてさらさらねえんだよ。死んでも部活なんてやるか。もういい。もう知らん。ミユに罵倒されようがミユに殴られようがミユに殺されようが俺はもう帰る。役立たずの俺なんかもう何をするでもなくそっとこの世に別れを告げるよバカ野郎。
「ヒカゲ、あんたもしかして帰る気じゃないでしょうね」
立ち上がった俺にミユの恐ろしい視線が突き刺さる。
「帰るよ。入部拒否されたし、こんな不快な部に入るつもりはねえ」
「あんた、部長さんの目の前で――」
「何も聞こえません!」
何か言い続けるミユを無視して俺は扉を閉めた。そしてヘタレな俺は限りなく音速に近いスピードで勇気ある逃亡を成し遂げたのであった。
疲れた。
日の沈み始めた下校道。俺は一人でそんなことをつぶやいていた。
こんな日が毎日続くようであれば俺の精神はすぐに病んでしまう。俗にいうヤンデレだ。この場合は『属』にいうかな、なんちゃって。……んなことはどうでもいいんだよ。とにかく明日は平穏無事に過ごしたいものだ。
しかし、毎日に変化を求めていた俺が明日に穏やかさとおいしいご飯を求めるなんて焼きが回ったな。登校二日目にして悟ってしまうなんて、いやはや黒い青春時代が待っていそうだよ、おじさん。
「黒い青春、黒春?」
もうなんか字面が嫌だ。
むむ、携帯が俺を呼んでいる。誰からだ。
「うげ」
鬼。あ、見間違えた。ミユだ。ミユと書いて死神だ。このコールを無視すれば確実に首を持って行かれるので、地下倉庫に監禁され食糧不足に陥りそんな状況で見つけた紫色のキノコのような塊を口にする気分で通話ボタンを押した。
「あー、もしもし? 携帯の持ち主ですか? 実はこの携帯落ちてたんですよ。だから僕は無関係です」
『なら届けなさい。ここの住所言うからすぐに届けなさい』
「落し物拾った僕にそれは酷いんじゃないかい。君がきなよ」
『そうする』
「やっぱりごめんなさい」
俺は切った。ひたすら電源ボタンを連打した。ボタンが壊れるくらい連打した。だから相手がかけ直してきた電話も思わず切ってしまった。不可抗力ってやつだ。……違うか。
血の気が引く音が町内に響いた気がする。それほどまでに俺の顔は青々としているだろう。空にだって負けないぞ。
明日死のう。それがいい。
今日はもう帰ろうかな。何もかも忘れるために眠ろう。疲れたからすぐ眠れるだろう。それ以外に俺を保つ方法がない。
そう思い前を向いて一歩踏み出したとき。
殺意の対象が目の前に立っていることに気づいた。
「き、奇遇だね。お兄ちゃん」
こいつはどうしようもなくグズだな。なんで帰ろうと考えていたところで帰りたくない原因がヘラヘラ笑いながら俺の前に現れるんだ。
「今、帰り?」
「……」
今来た道を引き返した。これ以上声を聴くと耳が腐る。
「あ、待って――」
「ついてきたら殺す」
「……」
そこから一度も振り返ることなくただひたすらにその場から離れた。目的地はない。ただこの世界が見えなくなるところに行きたかった。
ただ、無を求めていた。
どれくらい歩いたか分からない。あたりは暗く場所もよく分からない。この辺りは高級住宅が立ち並ぶセレブの街だ。俺のようにみすぼらしいガキは歩くだけで羞恥に頬を染めることになる。夜でよかった。
しかし困ったことに帰り道が分からない。無心で歩いていたわけで、どこをどう曲がったかもなん歩歩いたかも何ミリ靴の底がすり減ったのかも分からない。くそ、俺が正常ならこれくらいすぐにわかるのにゴメン嘘。
ここで一度後ろを振り返る。妹の姿は見当たらない。
「あそこでちょっと休んでいくか」
俺は百メートル先に見えた公園を目指して歩いた。
セレブの公園らしく、だだっ広い敷地内に多種多様な遊具が設置されていた。
「すごいな。俺の部屋くらいあるぞ」
誰に対するでもない嘘をついてみて無性に悲しくなる。しかも声に出したものだから無性に死にたくなった。
とりあえず気持ちを落ち着けるためにセレブリティな公園に俺の汚い足跡を付けて行こう。
グラウンドのように広い敷地をまっすぐに歩き、端におかれたハイセンスなベンチを目指す。そしてたどり着くころには二年……いや三年は経っただろうか。夏が来て秋が来て冬が来て春が帰ってきてまた夏に向かう。それを三度繰り返し俺はやっと安息の地へたどり着いた。
「ふぅぅぅ」
三年分の想いを、このため息に乗せ吐き出す。足は限界だ。一刻も早く休息を。
「ううぃーん。がしゃーん」
俺が腰を下ろしたとき、体中から妙な機械音が鳴った。ああ、そうか。俺はサイボーグだったんだ。
誰からのツッコミもないのは俺の心の中を覗いているやつがいないか、それ以前に誰もいないかのどちらかだ。
「ロボットですか」
突然後ろから声をかけられた俺は死ぬほど驚き思わずベンチから文字通り転がり落ちてしまった。
「な、な、な」
「驚きましたか。ごめんなさい。驚かすつもりでしたけど驚かせるつもりはなかったんです」
誰だかわからないがこれだけは分かる。美しい。
「ごめんなさい。こんな時間に人が来るとは思っていなかったから、少し驚かせてみようと思って」
意味が分からないけどいい匂いがするので許す。
「いやあ、驚かされました。おかげさまで四日前から止まらないしゃっくりが止まりましたよ。あと二回で百回に到達するところでした。ありがとうございます」
「それは危なかったですね。あと二回で命を落とすところでしたね」
「そうなんですよ。はははは。はぁ」
ツッコミがないというのは少しだけ寂しいものだと分かった高校生活二日目の夜であった。
「こんなに遅くに何をしているんですか? もしかして家出とかそう言った類の自己陶酔ですか?」
「自己陶酔……。いや、そんなことしませんよ。今日は素敵な出会いがありそうだなと思って妖精に導かれるまま歩いていただけです」
「まあ、素敵な出会いはありましたか」
「はい。女神様に出会えました」
「それは素晴らしいトリップぶりですね。ある意味尊敬します。ある意味」
ある意味を強調してくる女神様。いや、もうハズいからやめよう。
「おねーさんは何をしているんですか。月光浴ですか」
「いえ、ただ素晴らしい出会いがあると思い妖精に――」
「それはもう勘弁してください! 何してたんですか!」
「ただ何となく、外で妹の帰りを待っていたんです」
「……妹」
「どうかしましたか」
思い出したくない顔を思い出して俺は変な顔になっていたようだ。
「何でもないっす」
顔を見られたくなかったので視線から逃げるように立ち上がった。そしてそのままお姉さんから視線を外した先、木の陰にそいつはいた。
「……! てめぇついてくんじゃねぇって言っただろうが! ぶっ殺すぞ!」
妹は俺に見つかると慌てて逃げて行った。
「くそ、あいつ!」
誰もいない道の先を睨み付け、奥歯が鳴るほどにかみしめる。憎い。殺したい。
「あの……」
しまった。お姉さんの存在を忘れていた。変な奴だと思われてしまう。
「あー今のはですね――」
慌ててお姉さんに視線を戻すと妙な笑顔で俺の顔を見ていた。
「今度は何事ですか。何か見つけたのですか? 悪魔とか、妖怪とか」
しめた。なにか俺がまたへんなことを言い出したんだと思っているようだ。
「いやあ、悪霊がいたっていう設定だったんですけど、急に大声出すのはいただけませんでしたね。ごめんなさい」
「驚きました。急に叫びだしたので誰かいるのかと思えば誰の姿も見えないし、本当に悲しそうな顔をしていましたから」
悲しそうな顔? まあ、怒りも悲しみも似ているしそうとられても仕方ないのか?
「まあ、気にしないでください」
演技だと思っているのならそれがいい。
「気にします」
「は?」
思いもよらない答え。お姉さんが手を取ってきた。少し戸惑い、鼓動が早くなる。思いもよらない答えに戸惑ったのか、手を取ってきたことに戸惑ったのかは分からない。
「気にしますよ。あなたが何を見て何を思ったのかはわかりませんが、何かを守りたいということだけは分かります。ですから、何か困ったことがあれば私を頼ってくださいね。約束です」
「……」
意味が分からない。本当に意味が分からない。守りたい? 何を。妹を? 道徳を? 俺の人生を?
意味が分からないしこの人が何のためにこんなことを言い出したのかもわからない。分からないことは、聞くのが一番。
「どういうことですか」
「悲しそうな顔をしていました。でも声は怒りに満ちていました。感情の矛盾は心の防衛信号です。あなたの心は何かを守りたいと言っています」
これはまずい。この人は俗に言う電波ちゃんだ。いや、この場合は属に言うか? ってそんなことはどうでもいいんだって。早めにこの場を退散せねば俺も電波ちゃんに進化してしまう。……進化なら別にいいんじゃね? と一人で議論したのちに何も考えないという結論を出した。
「ぼけー」
「あれ、無になっていますよ。大丈夫ですか」
「大丈夫です。ところで妹さんはこんなに遅くまで何をしているんですか」
「さあ、よく分かりませんが、久しぶりの登校ですからお友達と遊んでいるのではないですかね」
久しぶりの登校。不登校だったのかな。聞いてみなければわからないがこんなことを聞くほど俺は無神経じゃない。さらっと流してほかの話題を振ろう。
「お姉さんは学生ですか?」
「まあ、一応そういうことになります」
「一応ってなんですか」
「学校、行きたくないんですよね。そんな私を学生と呼べるのかどうか自分で疑問を持っているのです」
このお姉さんも不登校に指先を突っ込んでいるのか。この話題もアウトだったようだ。っつーか、姉妹そろって不登校って……セレブってのはそんなにも心が弱いのか。……いや、不登校を心が弱いと決めつけるのはよくないな。心の弱さと不登校は関係ない。悪いのは社会だ。そもそも病欠かもしれないし決めつけるのはよくないな。
「じゃあ、僕はこれ以上地雷を踏まないうちに帰ることにします」
「そうですか。楽しい時間でしたが残念です。またいつでもいらしてください」
「迷い込んだときは顔出します。それじゃあ」
俺は大した名残惜しさも感じず来た道を引き返した。むしろ、なんだかあまり会いたくもないような……。まあいい。さっさと帰って寝よう。疲れた。
しかし結局道は分からず、家にたどり着いたのは二時を回ったころだった。